北上川の川下り
( part 4 )
昭和59年(1984年)の夏、3日間のお盆休みを利用し、岩手県北上市から宮城県石巻市を目指し、ゴムボートで北上川下りを決行したときのお話です。
第四章 宮城県を流れる
亀の歩み
宮城県に入ると狭窄区間は終わり、両岸は山ではなく広々とした平野部となる。
川の勾配はさらに緩くなり、
流れはヒジョーッ!に遅くなった。
こんなに遅いんじゃ、いつまでたっても河口までたどり着かないんじゃないか?
向山、仕方無いから漕ぐべ
朝のうちは二人とも元気がある。オールを漕ぐのも力強い。
30分くらい黙々と漕いだだろうか、少しは先に進むようだけど、中流域のときのような速さはない。
少し休み、再び黙々と漕ぎ出す。 この繰り返し。
川はゆったりで全然危険はないけれど、3日目の今日が体力的には一番疲れる日であった。
頑張ってオールを漕いでみたものの、単調な作業なので当然ながらだんだん飽きてくる。
せめて魚でも釣れれば面白いのになぁ~
この川下りには一応釣り竿を持参してきており、出航後はずっと釣り糸を垂らしていた。
生餌だとそのうち腐りそうなので、先に付けているのは毛針。
どんな魚が生息しているのかも知らないため、適当な毛針を垂らしてウキを眺めているだけの、何の知識も工夫もない仕掛けだったので、ついに3日間一度もピクリともしなかった。
登米(とめ)町付近まで来ると、北上川が大きく蛇行する箇所がある。(現在は「登米市」)
ただでさえ流れが遅くてイライラするのに、蛇行しているため頑張ってオールを漕いでも、ゴムボートは南に下るのではなく逆方向の北に向かってしまう。
なんか無駄なことをしているような気分だなぁ~ (-_-;) こういうのは精神的にこたえる。
タイムアウト
蛇行区間が終了したあたりで時刻はお昼どき。
そろそろ職場に電話をかけないとマズイな・・
有給休暇延長願いの件を万一拒否されたら、今日中に岩手の家まで帰らなくてはならないため、帰りの行程のことを考えると時間的に余裕はない。
上陸し、公衆電話を探して職場に電話をかけた。
会社や役所というのは一般的に、外から電話がかかってきた場合は下っ端の職員が出るのが普通だと思うけど、
当時の自分の職場というのは面白いもので、電話はいつも真っ先に科長が取っていた。
科長はもう長いことこの職場に居るヌシのような存在で、外部とのやりとりもまずは自分が矢面に出るタイプのお方だったのだ。
そして科長は出航時に見送りしてくれた理解あるお方だ。
今回の電話も、当然ながら科長が出て、有給延長の願いも簡単にOKになるだろうと信じて疑わなかったのであるが、電話口に出たのは
科長ではなく次長だった!
科長は本日休みなんだそうだ。
次長は厳格なお方である。しまった! と思ったときは遅かった。
事情を説明したが、「ダメだ。帰って来い」の無情な一言。
この瞬間、北上川をゴムボートで下って海まで行くという夢は潰えてしまったのだ。
(>_<)
でもまあ、仮に有給を一日延長してもらったとしても、この流れの遅さではもしかして河口まではさらに一日必要ではないか? という思いもあったので、潮時なのかもしれない。
それにしても昼時に電話して良かったワイ。
もし、当然許可されるだろうと安心しきって夕方に電話していたら、その日のうちに帰れなくなったであろうから・・・
さあ、いざ帰るとなるとこれまた大仕事だ。
じつは、これほどの装備(ゴムボート、荷物筏、テントや鍋等の荷物、水ポリタンク、お風呂マットなど)を抱えて岩手県江刺市の家までどうやって帰るか、具体的な作戦は考えていなかったのだ。
アホ
そそり立つ荷物
岩手の家までどうやって帰ろうか?
もちろん、川を遡って帰ることは出来ないので公共交通機関を利用するんだが、
この大量の荷物をどうやって上手くまとめて持ち運ぶかが問題だ。
現代ならば、荷物をひとまとめにさえ出来れば、お金はかかるけど宅配便を利用して人間だけ身軽に電車に乗れるけど、この時代は宅配便なんてほとんど浸透してなかったので、そんなこと考えも及ばなかった。
とにかく無い頭を絞ってやれることをやろう。
まずは、カッターナイフ、ペンチ、ビニールテープなどの最小限のサバイバル道具は持参しているので、この荷物を背負って運べるように細工した。
荷物筏の部品の一部であるスノコ板。 これを背負子のメインパーツにしてしまう。
背負子の背負いベルトは、ゴムボートと筏を連結していたロープを使う。
しかしロープが剥き出しだと細くて肩に食い込んで痛いので、
ゴムボートの底に設置していたお風呂マットを、カッターナイフで適当な幅に切り刻み、ビニールテープなど使ってロープに取り付けた。
これで肩への負担はだいぶ軽減されるはず。
スノコ板は本物の背負子とは違うので、そのまま背負うと背中が痛い!
そのため背中に当たる部分にもお風呂マットのカット片を貼り付けた。
ゴムボートとタイヤチューブはもちろんエアを抜いて折り畳む。それでもゴムボートは流石にデカい!
コッヘルやコンロ、余った食料などは、コンテナにギュウギュウに詰め込む。さらにテントや寝袋もある。
これらを急拵えの背負子に括り付けると、あら不思議、
尾瀬を歩く歩荷さんのような雰囲気になったではないか。
尾瀬の歩荷(ぼっか)
一応、様になってるな
じゃあ向山、これ頼むぞ
背負子を作る作業を傍で見て覚悟していたと思うが、これを背負うのはやはり後輩である向山君なのだ。
ひとまとめにしたとはいえ、そそり立つこの荷物!
背負ったり、荷下ろしするのも、誰かの補助が必要なこの荷物!
そして、やはり本当の背負子ではないので背負いにくいし、背中は痛いようだ。
(^_^;
しかし、仮に俺が背負うと言っても、
いいですよ、僕が背負いますよ!
と、必ず言ってくるはず。
向山君はそういう奴なのだ。
これを背負って電車とバスを乗り継いで行くのだ。 山の中ならそれなりにサマになるかもしれないが、電車やバスでは違和感有りすぎ! 目立ち過ぎ!
ちょっと可哀想な気もするが仕方ない。(^_^;
では俺の方は何も持たないのかというと、もちろんそんなことはない。
雑品を詰め込んだザックを背負い、片手にはボートの転び止めにしていた長さ1m80cmの杉板を持ち、もう片手には空の20リットル水タンクを持ち、これはこれで電車やバスに乗るのはちと恥ずかしいような風体ではある。
帰路
この後の記憶はほとんど無い。
40年後の今となっては、宮城県登米町から岩手県江刺市まで、どういうルートで帰ってきたか覚えていない。
かすかに覚えているのは、列車のドア付近のスペースで、荷物を床に降ろし二人とも立ったままでいたことくらい。
まあ、こんなデカい荷物を抱えていては客席の方には行けないからね。
登米町には鉄道がないので、おそらくバスに乗って東北本線沿いまで行き、新田駅とか石越駅あたりから列車(当時の鈍行列車は、電気機関車が客車を引っ張るタイプ)に乗ったんだと推測。
北上駅で降りたとして江刺の家までどうやって帰ったんだろう。
そして帰宅した日の夜のことも覚えていないや。
疲れ果てて、ビール飲んで二人ともコロッと寝てしまったのかな。
ともあれ無事に川下りを終えて帰還することが出来た。
目標の河口までは行けなかったけど、もともと3日間だけでは到底無理だったことが分かったので、大して悔しい気持ちはない。
何よりも、やりたいと思っていたことを実行したのだから、それだけでも充分に気分がいいや。
(^_^)v
この川下りの旅で、向山君には六原で危ない目に遭わせてしまったり、帰路では巨大荷物を運ばせてしまったりと、本人にとっては
思ってたのと違った!
という感覚かもしれないな。(^_^;
でも数年後、彼が結婚する前にはフィアンセを連れて盛岡まで訪ねてきてくれた。その晩はフィアンセさんも一緒に俺の行きつけのスナックで呑んだな。
さらに数年後には、愛知県から軽自動車を運転して訪ねてきてくれた。彼が描いたたくさんの絵を携えて・・
2012年には中央アルプス、2014年には八ヶ岳にも一緒に登った。 川下りで懲りても、こうして長く付き合いを続けてくれる素晴らしい後輩だ。
向山君よ、この旅では本当に世話になった。ありがとう。
そして出航地点までトラックで運んでくれた、当時の上司であり今は亡き科長様、本当にお世話になりました。ありがとうございました。
全4ページ